私と猫 時々犬たち

2023年7月30日

彼らとの思い出に浸りながら・・・

最初の猫との出会い

兄弟(兄が二人居ます)がどこからか拾ってきたものか
実際のところ、定かではないのですが
数十年も昔、私が幼稚園児の頃の記憶に猫は初めて登場します

彼の名は「たま」(昔は本当にこの名前が多かった 笑)
白地で、背中に黒い三つ葉のクローバー柄のある雄猫です
当時の日本、しかも田舎では、完全室内飼いの猫など、数えるほどしかいなくて
「たま」も食事時と寝る時以外は自由に出歩き、雌猫を追いかけていくと
1~2週間は帰ってこない。なーんてことは日常茶飯事でした。
今のようなキャットフードもなく(否、あったのかもしれないが)
御飯にお味噌汁をかけた、所謂にゃんこ飯が主食で、ワクチンなどとも無縁。
にもかかわらず、当時としては12年も生きたツワモノとして
近所でも有名なボス猫でした

とんだ災難(飛んできた災難?)

6歳上の長兄とは、よく「たま」をめぐって、喧嘩をしたものです
と言うのも、寒冷地にある実家は、冬場に布団が温まるまでが寒くて辛いので
彼を湯たんぽ代わりにしようと目論む兄弟間で毎夜のように争奪戦が始まります
その日も、私と兄は「たま」をとりあっていたのですが、いつもは
どちらかが諦めるのに、何故だかあの日は二人とも引かなかった。。。

普段は優しい兄ですが、この人はキレると、とんでもなく怖い人で
あの日、いつまでも駄々をこねて諦めない私に業を煮やし
「たま」をつかむと、「もういらんわー!「もう要らない」方言だそうです」という、捨て台詞とともに
私の顏を目掛けて投げつけました
驚いた「たま」の前足は空を切り、何かに掴まろうとして
目の前にあった私の顏に掴まった
今は、面の皮が厚い私でも、小学校の低学年当時の皮膚は柔らかく
彼は爪を立てたまま、重力で下へと、ずずずずず。。。
あの時の事を思い出してみても、不思議と痛みの記憶はないけれど
ただただ、兄の剣幕が恐ろしくて、泣きながら洗面所に向かった事と
その途中、妙に生暖かくて、生臭いものが頬を伝っているなぁとは思いました

兄が叱られたのか、それとも一歩も引かなかった私が叱られたのか
そこから後の事は全く記憶にありませんが
病院には連れて行ってもらえなかったようで
今でも左の頬に10cmほどの傷跡が残っています
4歳上の次兄は、当時の事をよく覚えていて
顏中血だらけの妹を見て「傍に居て止められなかった自分が悪かった」
と、言っていたようですが、猫好きな私にとって
彼らがつけてくれた爪痕は勲章のようなものなのです
(左腕にも、手首から肘辺りへ25cmほどの傷、右掌には何か所か
爪が立った時に出来た穴状の傷跡、これが「たま」で、これが〇〇で、と
数えたらきりがないくらいです 笑)

もう一つの災難

件の兄は当時、伝書鳩を十数羽飼っていて
前述の猫投げ事件から数年経ったある日、その鳩たちが
1~2羽だけを残して殆ど殺されてしまった事がありました
無残な殺され方で、あちこちに散らばった死骸を発見した兄は
傍に居た「たま」を掴み、家の前の橋の上から、川の水面目掛けて投げつけました
そう、キレると怖い兄は、大した根拠もなく「たま」を犯人と決めつけ
罰だとばかりに、川に投げ落としたのです
その日のうちに、鳩の死骸が蔵の中からも何体か見つかりましたが
食い散らかしていて、頭だけを残しているやり方は「どうもイタチらしい
大体、餌をもらっている「たま」がお腹を空かせて襲ったとは考えにくい」と
父が言ったものだから、さあ大変
その頃には落ち着いていた兄も顔色を変えて「たま」「たま」と
呼んで探し回りましたが、彼の姿はどこにもありませんでした

今は私の一番の理解者である仲の良い長兄を
「たま」が戻ってくるまでは酷く憎んでいたように思います
何せ目の前で愛猫を川に叩き落とされましたから。しかも濡れ衣で。。。。
え?あぁそうです、彼は3~4日後に随分とやつれてはいましたが
ちゃんと戻ってきてくれました
そして、私たちに顔を見せて御飯をねだったあと、また出掛けて行ったのですが
どこに行ったかと言うと、例の鳩小屋の場所
やっぱりお前が犯人だったの?と一瞬肝を冷やしましたが
彼は小屋の前まで行って座り込むと、見張りを始めたんです。
自分がちゃんと見ていなかったばっかりに、鳩たちを獲られるような
ドジを踏んでしまった。と、まるで悔やんでいるかのように。
この見張りは彼の日課となり、それ以降鳩がイタチに獲られるような悲劇は
二度と起こりませんでした。

別れ

私が小学校を卒業する前年の夏休み
ラジオ体操に向かおうとした私の目に入ってきたのは
実家の敷地の端っこにうずくまったぼろ雑巾のような塊でした
何日も前から彼はまた家出をしていて、家族と
「もう歳も歳なんだから、女の子を追いかけるのはやめたらいいのに」
と話していて、台頭してきた若い雄猫にも、もう勝てないのではないかと
心配もしていました

今は、猫の生活環境も様変わりし、家族に看取られながら亡くなる猫が殆どですが
かつては、猫は人に死に目を見せぬ、と言われていました
身体を癒す為に暗いところや静かな場所に陣取ったけど、結局力尽きてしまった
というのが実態なのでしょうが
その時もあまりに長い間家を空けていたので、ひょっとしてもうどこかで・・・
そう家族が思い始めた頃に、彼はボロボロで歩くこともままならない状態でも
何とか家に帰り着いてくれたのです

あちこち傷だらけの彼を抱き上げて、母に委ね
ラジオ体操を終えた私が急いで戻ってみると
彼はタオルを敷いた段ボール箱の中で安心したような顔で静かに眠っていました。
その時の私は彼が死ぬ、などとは想像もしていなかったように思います
帰ってきてくれた事を喜び、頬ずりしてからその場を離れ
朝ごはんを食べてから戻った時にはもう「たま」は息をしていませんでした

愛しくて愛しくて。。。。
優しくて賢い「たま」との別れは幼い私にはショックも大きいものでしたが
その時から私の猫愛は深まったように思います

ベス

両親、兄弟ともに、動物好きで、「たま」の死後も何匹か猫を飼っています
ただ、掘り炬燵(寒冷地の田舎では必需品)で使用する練炭が発する一酸化炭素。
あのガスで中毒死する子が、2年続けて出て、母は猫を諦めたようでした

初代「たま」も掘り炬燵で暖を取る子でしたが、怖さも判っていて
最初のうちは体ごと、まるまる炬燵の中に入り込んでいても
暫くすると、頭だけを炬燵から出し、ガスを吸いすぎる事のないようにして眠っていました
ところが、その後にきた二代目三代目の子たちは、暖かさに惹かれて炬燵の中に
入りはしたものの、気が付けば身体の自由が利かない、で、そのまま、意識を失う
母が異変に気が付き、炬燵の底から引っ張り上げ、外に出しておくと息を吹き返す。。。
大抵の子はこれを経験して学習し、同じことをしなくなるそうなのですが
彼らは、何度も繰り返して、最後には中毒死という悲しい結末を迎えてしまいました

猫を諦めた頃、今度はすぐ上の兄が、犬を飼いたいと言い始めたのです
少しくらいは、飼う飼わないの押し問答が両親とあったように記憶していますが
そこはそれ、動物好きな家族ですから
「ちゃんと面倒見るのね?」「餌もあんたがやるのよ?」と
型どおりの約束だけさせられて、次の日には、犬を貰って来ました
でも、残念な事に、この時のワンちゃんの記憶が私にはあまりありません

最初から、気の荒い犬だとは思っていました。餌を食べている最中に
近づいたり、後ろを通ったりすると、うーうーと低く唸り
振り向き様に噛みつこうとするし、一向に懐こうとしないのです
幸いにも私は噛みつかれた記憶はないのですが、飼い主の兄は
何度かやられたようでした。
勿論兄はおくびにも出しませんでしたけどね
言えば手放さないといけなくなると判っていたでしょうから。
ただ、これも内々の事だけなら問題にはならなかったでしょうが
ある日、遊びに来ていた近所の親戚の子が、犬の後ろを歩いて
「ガブリ」とお尻に噛みつかれてしまってからは、そうもいかなくなってしまった

今でこそ、訓練所などに入れて、矯正したりする事は可能なのでしょうが
当時の日本、というか、昭和一桁生まれの母の世代の人たちにとっては
犬は家族ではなく、ただの家畜という考え方が大半
しかも、人に害をなすような事があれば、即処分という事になります

父は古い人間ではあっても、柔軟で進んだ考え方をする人でしたから
処分するという話には頷きませんでしたが
母の立場は難しかったと思います、怪我をしたのは、嫁ぎ先の親戚の子で
その子の親は少なくとも小舅にあたるわけですから
甘い対応など出来るはずもありません
結局母が「保健所に連れて行く」と言い出しました

泣きじゃくって母にすがる兄を振り切って出掛ける母を
何と酷い親だ、と思った記憶がありますが
今思えば、母はもっと辛かったでしょう

この事があって、すぐ後に「ベス」がやってきました
昔流行ったスピッツという犬種の雑種で、真っ白い雌犬です
スピッツと言えば「よく啼くのが特徴、小さくても番犬にはもってこい」
などと当時は言われていましたが、彼女は殆ど啼く事のない、大人しいこでした
彼女は我が家に貰われてきた翌年から、毎年子を生し
亡くなる2年前くらいまで産み続けました
両親がそういう考えだったのか、はたまた、そういった動物病院が少なかったのか
避妊手術を受けさせるという選択肢はなかったようで、
母が毎年、子犬の貰い手を探して奔走していた事を思い出します

最初は、飼っていた犬から引き離された兄を可哀そうに思った母が
彼の為に「ベス」を貰ってきたのでしょう
しかし、3年も経つと、兄は就職して実家を離れてしまったので
その後は、私が飼い主となりました
小さい頃は茶色だった鼻の色が白に変わった所為か
キョトンとした顔になった、優しいお母さん犬の「ベス」
乳牛を飼育していた実家の牛舎で、牛の足元数歩の場所をねぐらに
牛に押しつぶされる事無く、器用に寝ていた「ベス」
兄が家を出て4年後、今度は私が家を離れる際には 
迎えの車に乗った私を追いかけ、カーブで私が見えなくなるまで
いつまでも道路を走り続けていた「ベス」
一年後、久々に実家に帰った私の前に尻尾を振りながら出てきた彼女は
腫瘍の所為で、お腹が膨らみ、歩くのも辛そうでしたが
庭の草の上に座った私に、彼女は一生懸命すり寄り
身体を私にもたせかけて眠ってくれました

母から「ベス」が死んだと電話連絡があったのは、その一週間後。
眠っているような、彼女らしい優しい死に顔だったと。
彼女は彼女なりに私にお別れをしてくれたんだと、今もそう思っています

アギラ


愛称で呼んでいいとは知らずに、血統書に登録されたままを使っていたので
可愛げがないし、まるで、特撮映画に出てくる怪獣のようでもありますが
ジャーマンシェパードの雌犬の名前です

結婚して一年もしないうちに、私は大きな病気(はっきり言えば癌ですが)にかかり
二か月ほど入院を余儀なくされました
手術と抗ガン剤治療で体が衰えたので、体力が回復するまで
暫くは実家に身を寄せる事になっていたのですが、ある日病室で主人から
「犬が要らないか?と言っている知り合いがいるんだけど」と聞かされました
元々、大きな犬(もしくは大きな猫)を飼うのが夢だった私には
「シェパードなんだけど。。。体力落ちてるのに大丈夫かな?」と話す主人の言葉は
もう耳には入らず、何の迷いもなくその話に飛びつきました

退院して2~3日後、彼女はやってきました。
子供と聞いていたのに、いつまでも、親犬と一緒だった所為か
この肥満気味の甘えん坊さんの体重は既に30キロ近くありました
車に乗せて帰ってきた主人は、あまりの大きさに
「道中怖くてたまらなかったけど、ずっと声をかけ続けていたよ」
親から引き離された事によるショックで、パニックになって暴れたら危ないので
道中、ずっと話しかけてやってねと、私がお願いしていた事を忠実に実践していたようです

人懐こっい気持ちの優しい犬でしたが、まだまだ子供で
散歩に連れ出すと、興味のある方へ猪突猛進
体力の落ちていた私は、結局引き摺り回されて、帰ってきたら
膝小僧や肘から血が流れている、という事がしょっちゅうありました
それを見ていた、実家の跡を継いだ長兄には
「お前、ホント動物好きだよな、アギラに倒されても笑っているんだから」
と呆れ顏をされましたが
私の体力は彼女のおかげでどんどん回復し、1カ月は自宅に戻れないと思っていたのに
10日ほどで実家を後に出来ました(スパルタ式ではありましたがw)

アギラとの暮らしは、濃密でしたが短い期間でした
ある日、突然と嘔吐や下痢をし始め、殆ど食事が摂れなくなった彼女は
かかりつけの病院へ通院途中、車の中で倒れてそのまま息を引き取りました
何の病気だったのか、判らないままですが
流行り病のように、近所の犬たちが何匹も命を落とし
アギラも3年半の短い生涯を終えました
病院に行くために車に乗せようとした際、弱った体で抵抗をした彼女
家で最後を迎えたかったのではないかと思うと
何が何でも病院へという行動は正しかったのか・・・
動物たちとの別れを経験する度に考えさせられる事柄の一つです

彼女は私を元気にして、そして旅立っていきました

こてつ

アギラを失ったショックで暫くは動物の居ない生活でしたが
動物好きの私は我慢できなくなり
「どこかに猫居ないかなぁ・・・」と、唐突に主人に言ってしまったのが
雪のちらつき始めた寒い日の事でした

今でこそ、里親探しのサイトだったり、譲渡会などがありますが
あの当時はまだネットもあまり普及していませんでしたので
近所の知り合いから、譲り受けるか
ペットショップの片隅で「良かったら貰ってやって下さい」
などと書かれた張り紙と一緒に、ケージに入れられた子猫を貰う
と、いった方法しかありませんでした
(私の頭には、ブリーダーやペットショップで猫を購入する
といった選択肢は、基本、ありません)←でした、と言うべきですね
今うちに居る二匹の愛猫達はコテコテのブリーダーっ子ですから(汗

それまでに、何度かそういう仔達を見かけていながらも
飼いたいという一言が言い出せずにいた私ですが
口に出してしまってからは、もうなりふり構わず。
週末になるとあちこちの、ペットショップ内の里親探しの仔を
探して回りました

 

 
 

私たちは季節発情動物と言って、一日の日照時間が長い
1月~9月に繁殖するからね。
例外はあるけど、春先から梅雨時期に出産する事が多いんだ

結局自分の住んでいる町では、冬場という事もあってか
一匹も見つかりませんでした・・・
諦めかけた頃
「道路脇にある小さなペットショップ前にケージが置かれていた」と
仕事中の主人から連絡があり、翌日には、仕事をサボって確認に行きましたが
寒空の下、排気ガスが立ち込めた道路脇に、ケージは置かれ
その中には真っ黒い子猫が寒そうにうずくまっていました
生後何か月かも、店の人は知らないし、小さな小さな子猫でしたが
抱き上げると、思いのほか大きな声で力強く啼きます。
「今まで面倒みた分、何か買ってって」と店の人に言われ、トイレと猫砂を買って
店を後にしたけど、面倒をみたと言う割に、ガリガリに痩せていて
腹立たしく思ったのを覚えています

こてつは男の子の名前だけど、女の子
(じゃりン子チエちゃんに出てくる強いコテツにあやかった)
小さな体ながら、声量すさまじく、これまでの分を取り戻す!とばかりに
キャットフードをたいらげる食欲は、これまたすさまじく
4キロになるまで、そんなに時間はかかりませんでした。
ただ、体が出来上がる時期に、ちゃんと食餌を与えてもらえなかった所為か
肢が細くて、体重を支えるのがちょっと辛そうになってきていたけど
これまで食べる事が出来なかった分を思い切り食べさせてやりたかった・・・

彼女の呼吸が苦しそうになりだしたのは、うちのこになって7年経った頃でした
病院に連れて行くと、レントゲンに写った彼女の肺は片方が白い影に覆われて
殆ど機能しておらず、残っている方の肺も半分くらいしか働いていない、と。
驚いた私に追い打ちをかけるように先生の口から出た言葉は
「ここまで進行していると、治療方法もないので、見守るしかない
でも、もうあまり長くないですよ」

先生の恐ろしい声を聞きながら、頭の中に思い浮かんだのは
排ガスの立ち込める道路に置きっぱなしだったケージ
あんな所で・・・寒空の下で・・・車の排気を吸いながらも私たちが迎えに来るのを
待っていてくれたこてつ・・・

今、動物の医療もペイン・コントロール(鎮痛処置)やQOL(生活の質)といった
思いやりケアを考えるようになってきましたが
少し前までは、動物は我慢強い、とか 痛みを感じない、などと言われていました
(隠れることで、苦しんでいる姿を見せなかっただけだろうに・・・)


痛みを感じないだなんて、ありえないし、こてつは本当に苦しみました
(人間の病気でも肺の病気は本当に苦しむ、と聞きます)
彼女は酸素を求めては何度も倒れ、その都度凄まじい形相で息が止まるのですが
また少しすると、息を吹き返すのです
最初は息を吹き返してくれると、嬉しかった。でも、それが何度も何度も繰り返されると
最後には「もういいよこてつ、頑張らなくていいんだよ」と声をかけ始めていて
悲しい事に、もう生き返らないでくれ、と願うようにまでなりました
彼女の苦しみとは比べようがないけれど、そのくらい看ている方も辛かった

長い夜が終わりを告げ、霜の下りた寒い朝を迎えた頃
彼女の身体は力尽きました
心根の優しい、啼き声の大きな、食いしん坊の女のこ
大人になってから初めて飼った猫でした

レオ

「可愛い子猫が居るんだけど、飼う?」と私の職場に主人から電話がかかってきたのは
こてつを飼い始めて4カ月ほど経った春の事でした
可能であれば猫は2~3匹飼いたい、と常日頃言っていた私でさえも
あまりに急な事でしたので、驚きはしましたが
その子猫は動物愛護センターで翌日に処分される身の上で
センターで働いていた主人の知り合いが
人懐っこくて、可愛い子猫を何とか助けたい一心で、連絡してきた
というのが経緯。となると、否も応もありません
(こんな背景がなくても飼っているとは思います)
休暇をとって急いで家に戻ってみると
そこには、シャムの血が入った目の青い、可愛い子猫が待っていてくれました

子猫にはありがちな事ですが、先輩ネコが居ても物怖じはしません
この子猫も何とも堂々たるもので、家の中を勝手にあちこち冒険してまわり
やっと落ち着いたと思ったら、部屋の隅にとことこ歩いて行って座り込み「ジャー」
あらら。。。ずっと我慢していたんだねぇ。。。
(この時以降、彼は一度もトイレ以外の場所で粗相はしていません)

一方、先住のこてつは自分の目の前を平気でうろつきまわる闖入者に
尻尾を逆立て「シャーシャー」啼きどおしで、先が思いやられる幕開けでした

私が傍で見ている時は守ってやれるけど、ちょっと目を離すと
こてつは、ポカスカと前肢でレオの頭を叩くし、何かと言えば追いかけまわします
子猫のサイズなら何とか入れる隙間を二階に確保して
「姉ちゃんが追いかけてきたら、ここに隠れるんだよ」と判りもしないのに
言い聞かせ、後ろ髪引かれる思いで仕事へ行ったのが、彼がうちに来た3日後でした。
仕事から戻ってみると、心細そうな顔をして、タンスの裏から出てきたレオの顏を
今でも思い出します。
それでも一週間も経つと、降りられなかった階段も降りれるようになり
格段に逃げるのが上手くなったレオ。
こうなってくると、今度はこてつの方が母性本能でも出てきたのか
追いかけまわすと言うよりも、逆にベッタリと付きまとい
私が傍に寄ろうものなら「このこはあたしのものなんだよっ!」とばかりに
自分の後ろに隠すような格好までし始めます
この行動は、せっかく二匹の猫を迎えたのに・・・・と、私なりに
若干寂しい思いをしたものですが、おかげで留守を任せられるようにはなりました

今うちにいる、メインクーンとノルウェージャンの二匹は
長毛という事もあるのか、布団の中に入ってきて一緒に寝る、といった行動は
例え、冬場でもとりませんが、こてつとレオは、私の布団に潜り込み
私の左腕を枕にして眠っていました(両サイドではなく、必ず左側に二匹)
布団にいれてほしい時、レオは冷たい鼻先を私の顏に上手にくっつけて
私が布団を持ち上げるよう促すのですが
夜中何度も布団から出て行っては、これを繰り返してくれるものだから
あの頃の私はいつも寝不足気味でした
(熟睡している時の、この冷たい鼻攻撃は飛び上がるほど驚きます)
しかも腕枕を動かすと爪を立てられたりするので、寝返りすら打てず。。。
猫を抱いて眠れる嬉しさ半分、寝不足の辛さ半分といったところでした

猫はみんなそうかもしれませんが、彼はとても脚力の強い子で
身長167cmの私の肩にもダイレクトに飛び乗れました
本人(猫)も肩に乗れる事が自慢のようで、用もないのに、あっちで飛びつきこっちで飛びつき、
と繰り返してくれるものだから、私の肩はいつも傷だらけでしたね

また彼は、自分がかなりのイケメンである事を自負しているような節が見られ
とてもプライドの高いこでした
肩にうまく乗れなかった時など、彼の失敗を、思わず笑ってしまったりするともうご機嫌斜めで
名前を呼んでも無視するし、本当にそっぽを向くんですよね
まぁここで私たちも相手にしなければ良かったのでしょうが、宥めたりすかしたりして
ついつい甘やかしたものだから、彼も味を覚えてしまい、よくご機嫌取りをさせられたものです

そんな彼も、年齢とともに、耳が遠くなり、目もあまり見えなくなりました
まわりの状況が判らないと不安になるのでしょう、いつも傍に居て体を触っていてやらないと
大きな悲鳴のような声をあげるようになった、20歳まであと2か月と迫った春先
3晩ほど寝ずの番をしていた私が、30分ほどウトウトしてしまった間に
彼は虹の橋を渡っていってしまいました
年老いても、イケメンなままの綺麗な死に顔で、レオらしいなぁ。。。と
唯一、死に目を看取ってやれなかったこです。ごめんねレオ

カイ

こてつ亡きあと、一匹になってしまったレオ
我が家に来た時には先住がいたわけだし、日中、夫も私も留守では寂しかろうと
次のこを探し始めたのがこてつが亡くなって3か月後くらいからだったでしょうか
相変わらずの里子探しで、何軒かのペットショップを回りましたが、どこも空振り
不思議なもので、探していない時は、庭先に子猫数匹を連れた母猫が遊びにきたり
「猫飼わない?」と知人から声をかけられたり。。。
なのに、いざ探しはじめると、まったく猫の気配がなくなってしまう
何週目かで自分の住んでいる町を諦め、車で1時間かかる県庁所在地での猫の譲渡会にも
出掛けましたが、行った時には「もう猫ちゃんの譲渡は終了しました」と言われ
がっくり項垂れて帰宅しました
次の週「もう一度行ってだめだったらここを最後に諦めよう」と出掛けた近所のペットショップ
ここでは何度も里親探しの猫達が居た